リアルタイムで「渋谷系」を生きた僕からみた渋谷系をフリッパーズ・ギターになぞってみる。
どうもです。
音楽を好きな理由って色々あると思うんですよ。
・歌っている人が好き
・声が好き
・そのジャンルが好き。
・心が落ち着く(または心が踊り出す)
・メロディに中毒性があって頭から離れない。
・こういう音楽知ってる、聴いてる自分がカッコイイ
・流行ってるから
・今の自分の心を代弁してくれてるから
・・・・・etc
で、僕は思うんですけども、そのどれもが「崇高」でもなければ「下劣」でもなく
単純に、どれも一様に全部が「音楽ファンの本物の心理」だと思うんですよね。
なぜ?
って音楽ファンに優劣の序列があるのだとしたら、すなわち、それは音楽自体に優劣の序列が付くことになって、それは即、音楽文化の先細りを意味します。
まがい物が許せなくて「これが本物だ」ってのが優れた意見なのだとしたら、そういったものしか世の中には残らなくなってしまって。その先でも更に「これが本物だ」みたいな論争がきっとあって。
最終的にさまざまな音色で彩られた世界なんて無くなってしまう灰色な未来が待っているでしょう。
けれども若い頃って尖ってるじゃないですか。
だから結論から先に言いますけど
僕は「渋谷系」って言葉がクソダサいと思ってました。すみません。
僕は小学生のときにビートルズに触発されて、中学でバンドをはじめて、高校一年生からクラブに通ってました。ジャンルは英国ロック一色です。
そして下北沢に当時あった「ZOO」と言うクラブの「LOVE PARADE」という月イチのイベントがまさに英国音楽そのものだったので毎回通っていたのですが、
DJが後にクルーエル・レコードを立ち上げる瀧見憲司さん。40人も居たかな?というお客さんのなかに、小山田圭吾さん、小沢健二さん、カジヒデキさん、カヒミ・カリィさん、その他癖のある人たちがいて、僕は高校の先輩に誘われ、学校のクラスメイト、後輩も誘って、感じでした。
掛かっていた音楽はいわゆるアノラック、ネオアコ、ソフトロック、時折フレンチポップ。
その中からフリッパーズ・ギターの前身であるロリポップ・ソニックやらブリッジやら、小山田氏、小沢氏両名の彼女たちによるFancy Face Groovy Nameが立ち上がったりしたわけです。
僕がこれから書くことは直接聞いた話やメディアで見た話やその他諸々の記憶がごちゃまぜに、そして曖昧になっているので、参考程度に納めてください。
多分記憶違いもあるかと思いますので。
さて。渋谷系といってもフリッパーズ・ギターの時代で言えば2rdくらいまでの知識しかありません。(フリッパーズ・ギターの知識ではなくて、フリッパーズ・ギターを中心とする渋谷系とされる音楽の知識という意味で。)その後に出てきた「渋谷系」なる音楽の知識は皆無です。
なのでそういった渋谷系の音楽の基盤となるものが、文化と共にどういった変化を遂げていったのか、フリッパーズ・ギターを題材に、記憶を頼りに辿っていきたいと思います。
まずファーストから
three cheers for our side〜海へ行くつもりじゃなかった
アルバムタイトルはポストカードレーベルの「オレンジ・ジュース」の曲から。寒い感じのサブタイトルはあえて。そもそもオレンジ・ジュースの2nd、日本でのファーストアルバムのタイトルが「キラメキトゥモロー」ですからね。
音楽的には、というと
GOODBYE OUR PASTELS BADGE - さようならパステルズ・バッヂ
ジャンル的にこの辺のソフトロックを模倣していた感じでした。
Roger Nichols & The Small Circle Of Friends - Don t Take Your Time
そして歌詞の中に
bye! goodbye our pastels badges ←The Pastels
teenage kicks can't die ←The Undertonesの曲
a postcard from Scotland says ←スコットランドのポストカードレーベル
it's still raining hard in the highland ←aztec cameraのファーストアルバム
just like James Kirk did long ago ←オレンジ・ジュースの元メンバー
but our hairdresser should be a boy ←The Boy Hairdressers後のTeenage fan club
・・とまぁキリがないのでやめておきますが、当時ZOOで流れていた、多少メジャーであったスコットランドのアーティストから、そして恐らくはそういう40人ほどの限界界隈、手に入る場所は新宿のVinylというレコードショップもしくは運が良ければディスクユニオンの100円のコーナーだけ、のようなアーティストを羅列した内輪ウケの内容でした。
とにかく世にあまり溢れていない、自分たちのやりたいジャンルの音楽を模倣したい。そういった情熱のこもったアルバムで
その風潮は2ndにも受け継がれています
CAMERA TALK
なぜカメラなのかというと、カヒミ・カリィさんがカメラマンだったからです。多分それだけです。
音楽的にはファーストと同じ、特定のジャンルの模倣です。
Camera full of kisses/全ての言葉はさよなら
2ndは1stよりもオマージュが分かりやすいです。元ネタと言っても過言ではないかも。
The Hit Parade - You Didn't Love Me Then
日本語で歌うことは不本意で、レーベルの意向だった、というような話は聞きました。1stのような言葉遊びがやりにくいから嫌だったのもあるかも知れません。
さて、このあたりから世間でもフリッパーズ・ギターの知名度はグンと上がってくるんですけども、僕が思う理由としては、
特定のジャンルの人に聴かれるサブカルチャー的ポップミュージックの唯一のアーティストだったのではないかと。
フリッパーズ・ギター以前のサブカル音楽って、例えばナゴムレコードの有頂天や筋肉少女帯のような、完全に一般と剥離した部分にあって、
例えばチアガールタイプでない、サブカルでもオシャレに属するナードな女の子、つまり当時で言うオリーブ少女、今で言う青文字系の女の子に響くポップミュージックが無かったんですよね。全く。
そこにドンピシャで嵌ったのではないかと。事実マガジンハウスはフリッパーズ・ギター大好きでしたからね。
けれども同時に「小山田、小沢=オシャレ」のような図式も確立させてしまったと。実際オシャレではあったんですけど、音楽にオシャレを当てはめるのはどうかと。
いやぁ、僕はオレンジ・ジュース、オシャレだなとは思ってなかったな 笑
そして3rdを目前に、世界的に音楽の大波乱が起こるわけなんです。
「セカンド・サマー・オブ・ラブ」です。
屈託なく言えば、第二次ドラッグブームです。世界中のあらゆる音楽が一気に打ち込み、もしくはサイケの方向に流れ込むわけなんですが、小山田氏はここに非常に敏感でした。
DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-
音楽的には以前の特定のジャンルの模倣とは全く違っていて、例えば
Flipper's Guitar - ドルフィン・ソング
イントロはブライアン・ウィルソンが精神を病んで制作したThe BeachboysのGod only Knowsをバックに後にミッキー・ドレンツに「ジャックニコルソンがLSDを使って作った映画」といわしめた、モンキーズのサイケムービー「HEAD」からチャンネルを切り替えるシーンをサンプリング。
AメロはEyeless in Gaza のChanging stationsのサンプリング、途中の変調はバッファロー・スプリングフィールドのBroken Arrowのオマージュと、僕が思いつく範囲でもわずか数分でこれだけぶち込んでくる。全曲解説していたらキリがない。
サイケデリックロックのアルバムとしてはかなり素晴らしいアルバムなので、渋谷系として敬遠していた人は今一度聴いてみてください。
1st、2ndがソフトロックやネオアコといった、割と軽めのポップスの模倣だったし、「オシャレ」ともてはやされても仕方がないとも思うけど、3rdは明らかに小山田氏のサイケ志向、ある意味その時代の最突端の音楽の嗜好が浮き彫りにされたアルバムだったと思います。
けれども、そうしてファッションリーダーアイコンと化した、偶像のフリッパーズ・ギター、小山田圭吾氏がオススメする音楽、もしくはハマっている音楽は何故か渋谷の某大型音楽チェーン店にてポップと共に宣伝されるようになり、先程あげたオリーブ少女やら、音楽に詳しくなりたいワナビーズたちの聖地になって行きました。
多分店員に小山田圭吾信者が居たんだと思います。というかそういう話を僕らでしていました。小山田くんが好きっていうと、次の日店頭に並んでるよねって。
これがリアルタイムを知る僕の音楽ジャンルとしての「渋谷系」の由来。
ただし、その頃は既に過去のものであるソフトロックやネオアコには見切りをつけて、突端のサイケな音楽ムーブメント世界へ没頭していたわけで
そういう風潮を鼻で笑って馬鹿にしていましたね、小山田氏は。
俺が好きなものはなんでもオシャレかよ、って。つまり彼らフォロワーはサイケデリックという音楽の本髄を観ること無く手放しで称賛していただけなので。
ねむきゅん、それ小山田氏が多分一番嫌がる感じのやつやで笑
今でも「渋谷系」というジャンルはどういったモノか、ハッキリとしない。
恐らく理由はここにあると思います。
一方小沢氏は「ジャンル」にとどまったし、僕が最後にZOOで見た彼は、文字通りベレーを被った5~6人のオリーブ少女に囲まれていました。
けれどもそれは、冒頭でも言ったけどどちらが崇高でどちらが下劣という話でなないと、僕は思います。
ただ、フリッパーズ・ギターが何故解散したのか、なんてその時代を目で見ていれば明らかでした。この二人が同じ方向を向いている訳がないのは明白だったし。
日本ではまだまだ「渋谷系」は根強かったと思うのだけれど
けれども僕は興味がなかったのでよく知らないのですよ。後発のマニアの方がよっぽど研究されてるし詳しいBlogを書いているのでそちらを参考にされると良いと思います。
それが本当に渋谷系なのか、僕にはわからないですけどもね。
なんだかこういう書き方をしてしまうと、自分は流行る以前から聴いてるんだよ、っていうマウント取っているような印象を与えてしまったかもしれないですけど、違うんです。
少なくとも当時は小山田氏を中心とした音楽ムーブメントが本人の意向とは全く違う形で神格化されていたことに対して物凄く違和感があったし、まだ若くて尖っていたのでそういう風潮を小馬鹿にしていたな、というお話です。
今は思ってませんよ。今でも聴きますし、最初にあげた例が僕の音楽に対する姿勢なので。
以上、僕の青春時代の体験がなにかの参考になれば。
ではでは。