試験場の扉を出たら、空は驚くほど青かった
恥ずかしながら今更教習所に通っている。昼間、たっぷり時間があるのでいい機会でもあるし、楽しんでも居る。
だが今日は少し様子が違ったのだ。普段どおりにやれば問題ない、と言われれば、では少しのミスも許されないではないか、と考えてしまう性格である。
「仮免許試験」というさほど大きな壁ではないのだが、そういう性格なのだ。諦めている。
気が乗らないまま、ぎりぎりに家を出る。しかめっ面でうつ向いたまま、教習所に向かった。道を間違えた。ただでさえ遅刻すれすれなのに、と舌打ちをした。
第二試験場、という部屋に通された。みな教本を読んでいたが、異種免許を持っている自分には筆記はなかったので、手持ち無沙汰に時計だけを眺めていた。
すると、ハンチングを被った随分と大柄な男が入ってきた。目立っていた。が、彼もそれを自覚しているかのように、ぺこりぺこりと誰にでもなくお辞儀をして静かに席についた。
公平を保つために、次の受験者は試験中の後部座席に乗るように、との説明を受けた。自分は3番目だったので、二週目で後部座席に乗れば良い。
試験は一般の昼休みに当たる時間に行われた。一列になって外に出ると、早速最初の二台がほぼ同時に走り出した。
「あの、おじいちゃんの教官の方がいいですね。若い方は怖そうです。」
声の方を見ると先程の大柄な男だった。そうですね、優しそうだし、と言いながら一歩彼に近づくと、彼が相撲取りであることがわかった。髪結いの、びんづけ油の独特の匂いがするのだ。
「今日は稽古は休みですか?」
と聞くと、彼はすこし驚いた顔をしたので、家の近所にね、大きな相撲部屋があってコインランドリーやらコンビニやらで時々その匂いがするんですよ、と説明をしてハッと気がついた。誤解されたかもしれないと思い慌てて
「いい匂いしますよね、僕は好きです」と付け加えた。
ありがとうございます、と言いながらまた、彼はぺこりぺこりと頭を下げた。
待っている間、昨日まで遠征だったので車に乗るのは2ヶ月ぶりであること、明日からまた九州に遠征だから今日しかチャンスがないこと、そろそろ引退を考えているので就職のために免許が欲しいことを教えてくれた。
おいくつなんですか?と聞くと
「二十九です。」とまたぺこりぺこりと申し訳なさそうに答えた。
別に僕に申し訳ない事なんかないだろうが、なんでも29歳という年齢は引退していてもおかしくない歳だそうだ。目立った力士ならば再就職なんて考える必要もないだろうし、それは、彼の態度をみていれば、大体の相撲界での彼の位置というものが見えてしまっていたので、僕はそれ以上は何も聞かなかった。
一周目の車が戻ってきたので、僕は軽く会釈をして後部座席に向かった。彼の「兄さん、がんばってください」は的外れな言葉だったが、心に響いた。
2番目の受験者の運転は酷いものだった。おかげで自分の心に余裕ができた。後部座席から降りて運転席に乗り込むと、代わりに力士の彼が後ろに乗り込んできた。僕はなんだか嬉しく思い、試験を楽しもうという気持ちにすらなっていた。
試験はなんなく終わった。力士の彼が最後の受験者ということで、僕が再び後部座席に乗ることになった。
終盤「そこ!直進ですよ!」と教官の激が飛んだ。すいません、とぺこりぺこりと頭を下げてから、様子がおかしくなった。運転がふらふらになり、ウインカーを二度、出し忘れて彼の試験は終わった。
合格発表まで随分と待たされた。減点方式で合格ラインは70点。ウインカーのミスはマイナス10点だ。おおきな体をまんまるにしてうつ向いている彼に、マイナス20点だったらまだ10点余裕があるじゃないですか、大丈夫ですよ、と声を掛け続けたが、彼の中では落ちる前提で話が進んでいた。
実際彼のほうが正しいように思えた。激を飛ばされてから細かなミスが続いていたし、10点で収まるかどうか正直怪しいところだった。僕も考えを切り替えた。
「でもですよ?合格したとして、次は二段階だから二ヶ月後にいきなり路上ですよ?考えようですけど、次試験合格してから、路上のほうが怖くないじゃないですか。今日は練習って意味で、ね?」
そうですよね、という彼の言葉とはうらはらに、大きな背中は相変わらずまるまったままだった。
一人ひとり部屋に呼ばれて注意点とともに合否を告げられた。僕は何の問題もなく合格と言われ、部屋を出た。
「おめでとうございます」と、少し無理のある笑顔で言われたので聞いてみると、声が少し漏れてました、兄さんおめでとうございます。と念を押すように彼は言った。
一階で待つように、と言われていたが僕は少し部屋から離れた階段の所で最後の受験者である彼を待った。随分と話が長かった。あの運転では無理も無いだろう。僕もなんだかうつ向いたまま待っていた。
扉が勢いよく開いた。
「兄さん!!合格した!!!」と彼が満面の笑顔で駆け寄ってきた。
やったじゃん!!と手を出して握手を求めたら、そのまま手を握ったまま彼が抱きついてきた。大柄の彼の脇越しに、ほら!だから言ったじゃん、まだ10点あるって、と背中を叩きながら言うと
「いや、その10点も使って、ぎりぎり30点マイナス」
二人で抱き合ったまま声をだして笑った。本当におかしくておかしくて、大声で笑った。先に僕が我に返って、彼から離れて口元に指を立て、うるさい!と笑顔で叱りつけた。
一瞬ハッとした表情をみせたが彼の口元は緩んだままだった。
一階に降りてからも僕らは話が途切れなかった。九州かぁいいなぁ。どうせおいしいもの一杯食べるんでしょ?
「いやいや、これ以上太っちゃいけないから」
おいおい、相撲取りが何いってんだ、と彼の腹を叩きながらまた笑った。敬語なんか飛んでいった頃、また第二試験場に呼ばれた。
僕はなんだかわからない書類にサインして終わりだった。残りの8名はこれから学科の試験がある。そっと部屋を出る時に彼に、がんばれ、のサインを贈ろうと思ったが、彼はずっと教本に目を向けたまま顔をあげることはなかった。心のなかで「がんばれ」を言った。
試験場の扉を出たら、空は驚くほど青かった。自分の街から少しばかり地方へ向かったところにあるその街は、ビルもなく遮蔽物も少ないので空が広く大きかった。10月の終わりにしては温かい日だったので、着かけた上着をまたしまった。
空を見上げながら、彼のことを考えていた。恐らく僕はあと10日ほどで卒業だろう。二ヶ月後からまたスタートする彼に会うことは、もうないのだろう。
また道を間違えた。
うつ向いていても、見上げていても、道なんて間違うものだ。
どうせ間違うなら空を見上げたまま間違うほうがいいに決まっている。そう思いながらまた「がんばれ」と心の中でつぶやいた。