「なぜアイドルに熱を上げるオジサン、オバサンは醜いのか」へのドルヲタからの反撃Blog
1970年代、ヴェトナム戦争が激化した頃、メディアに対してほぼ規制を掛けなかったアメリカ本国では、その壮絶かつ生々しい映像の影響で反戦運動が高まっていた。
ところが、ヴェトナム帰還兵(Vietnam-Vets)は同じ反戦を唱えながらもこんな標語をスローガンにしていたわけです。
「そこに居なかったのならばお前の議論は無効である」
つまりは現実を見ても居ないのにガタガタ抜かすな、と。
僕はこれって何にでも当てはまると思うんですよね。
批判は結構。ただ反撃を喰らわないためにも批判対象は徹底的に調べるべきだし、知るべきだと僕は思っている。特にモノを書く立場の人間であるならば、想像だけで論じては現場を知る人間から鼻で笑われてしまうのである。
50歳前後とおぼしきファンを公言する人たちが平然とテレビカメラの前に素顔をさらし、あれこれコメントしていたこと。メンバーの名前を挙げて「彼女は悪くない」とか何とか言っていたけど、娘ぐらい年の離れた少女に熱を上げて恥ずかしくないのかね。彼らも地元に住んでいるとしたら、どこのだれか分かるだろうし、近所で評判になりそうなものだけど、全然、平気なんだね。
三枝成彰の中高年革命 なぜアイドルに熱を上げるオジサン、オバサンは醜いのか
その論調が正しいのであるならば、高校野球を楽しみに熱を上げて応援する人も、オリンピックのフィギュアスケートを見にゆく人も、なんなら将棋や囲碁のファンの人も「応援しています」なんてテレビで言わないほうが良い。近所の目を偲ぶように生活したほうが良い、ということになる。
アイドル=恋愛対象、という単純な図式だけでこの文化が成り立っているのであれば、そこに歌もダンスもパフォーマンスも必要ないわけで、ただ可愛い女の子がステージに立って喋っているだけで良いのではないか?
これだけ多くの人を魅了するのだから、そこに何かしらのエネルギーがあるのではないか?と思うのがアカデミックな考え方なのではないかと僕は思うのである。
我々日本人は十代の限られた時間の中で、夢に向かって励む彼らの姿勢を手放しで称賛してしまう特性が強い人種だと思っている。
そしてそこに、「高校野球なら崇高で、アイドルならば下劣という序列」を作ることに明確な根拠なんかないんじゃないか?と僕は思う。
ただそこに生理的な嫌悪感のようなものがあることは認めよう。認めた上で、かれの記事は全く論理的でなく、感情論だけの薄っぺらなものであると、僕は感じてしまうのだ。
アイドル文化、嫌いで結構
ただし、
「見ても居ないならばガタガタ抜かすな」
以上です。