Life SUCKS but It's FUN

音楽、IT、サブカル、アイドル、その他思いつくまま好きなものだけ共有したい、ルサンチマンの雑記です。

全ての呪われた子どもたちへ捧ぐ~愛と汚辱のうちに

 

まるで忘れた頃にやってくる季節風のように

今でも時折、「イジメ」が問題になることがある。

 

そしてそのたびに大勢の意見として、いじめる側が悪いという立場から

イジメられる側にも問題があるという意見が

まるであらゆる議論を降り出しに戻すかのように叩かれるのを目にする。

 

つまり、一般的な印象としてはイジメられる側にも問題がある、とする側がいじめっ子の意見と解釈されているように感じる。

 

そうだろうか?

僕は逆なんじゃないかと思うことがある。

 

例えばだ。

あなたが会社に入ってイジメを受けたとしよう、

同僚がこう言う

 

「アイツらが悪いんだ、気にするな」と

 

で?

あなたは救われるのだろうか?

 

そもそも、そいつらが悪いと理解できる性質を自分が持っているのならば

落ち込むことも、傷つくこともないだろう。

 

そうなのだ。僕もそう。

 

自分が悪いと思ってしまうのだ。

 

イジメられてる側に問題があると思ってしまうのだ。

だから傷つき、悲しみ、誰にも触れたくなくなるのだ。

そして相手を恨まない。不幸になればいいとも思わない。

 

 

僕は高校生の時に近所のおもちゃ屋でアルバイトをしていた。

ゲームがあって、駄菓子があって、常ににぎやかな下町のおもちゃ屋だった。

 

そこに、小学校に上がるか上がらないかくらいの目立たない女の子がいた。

僕は彼女が他の子供と話している場面を一度も観たことがなかった。

そうして、夕方になると、おばあちゃんと思われる人が迎えに来て

一緒に帰っていくのだ。

 

傲慢だったかもしれない。

けれども、僕はなんとか彼女の悩みを知りたいと思うようになった。

 

毎週末、彼女が現れるのを待つようになった。

そうして(元来こういう人間なので)彼女が現れると嬉しくなって

満面の笑顔になってしまうようになった。

 

半年くらいかかった。

彼女のなまえは「みさ」だ、と教えてくれた。

 

それから僕は彼女が現れると嬉しくなって

 

お!みさちゃん!

 

と笑顔で声かけるようになった。

彼女も笑顔で答えてくれた。

 

けれども。

僕は結局彼女の繊細な部分に触れるのが怖くてなにも聞けぬまま

彼女はぱったりと現れなくなった。

 

風のうわさで、彼女は引っ越したと聞いた。

 

僕はそれからずっと、彼女に対して何も出来なかった自分を後悔し続けた。

 

 

 

けれども。

今は思うのだ。

 

彼女の悩みを知って、

「アイツらが悪いんだ、気にするな」

と言ったとして。

 

それがなんの救いになるだろう?と

 

むしろ、そこに行けば、嬉しそうに名前を呼んでくれるお兄さんがいる

 

それだけで十分だったのではないだろうか?

彼女が僕に返してくれた

誰にも見せなかった笑顔の意味は

そういう事なのではないだろうか?と

 

僕の好きな小説「ライ麦畑でつかまえて」の主人公

ホールデン少年は妹に、お兄ちゃんは何になりたいの?と聞かれ

 

僕はライ麦畑で遊ぶ子どもたちを観ていたい、そして崖から落ちそうな子供がいたら捕まえる役をやりたい

 

と答えた。

 

僕もそういう人で居たいと思う。

言葉なんかいらないんじゃないかと思う。

 

 

 

今日は外は雨模様だ。

にもかかわらず、朝刊配達の自転車の音が聞こえる。

 

僕には無理だなと思う。

いくら英語が理解できても、パソコンが扱えても

そういう所では自分は無能なのだろう。

 

いじめる側?いじめられる側?

SNSのせい?少子化のせい?

 

そんなのはひょっとしたら全て空論なのかもしれない。

 

人にはそれぞれの居場所がある。

魚が陸では生きられないように、

あなたがそこにいて苦しいのなら、

そこが居場所じゃないってだけの話なのかも知れない。

 

 

 

すべての呪われた子供たちへ捧ぐ。

君たちは運悪く、陸で生活せざるを得なかった魚だ。

自分の居場所よりも先に、自分が生きられない場所を与えられただけの魚だ。

 

自分を否定するな

他人を否定するな

 

自分が泳げる海まで走れ

それは弱さでも逃げでもないと知れ

それは強さと希望だと知れ

 

その先には言葉も理屈もいらない世界が待っている。