Life SUCKS but It's FUN

音楽、IT、サブカル、アイドル、その他思いつくまま好きなものだけ共有したい、ルサンチマンの雑記です。

藤宮若菜著『まばたきで消えていく』について

僕の敬愛するホールデン・コールフィールド少年は妹に著作物について

本を読み終わったあとに作者と語りたくなるような、友達になりたくなるような、そういう本がすきだ

というようなことを語っている。

 

著作物から何かを学ぼうとか、救いを求めようとか、勇気を貰おうとか、そういった類の仰々しいものではなく、つまりは文豪と呼ばれようが天才と呼ばれようが、所詮同じ人間が記したもので、著者と共感できる、くらいの立ち位置で良いのではないか。と、僕も思うのだ。

 

しかし、それは小説という形をとって、言い換えれば物によっては十数時間も著者と向き合えた場合にのみ可能ではないだろうか?とも思うのだ。

 

藤宮若菜氏は短歌の詩人である。

 

つまり、彼女の一つの作品と向き合えるのはわずか数秒なのである。

 

そして。さて、これは僕の言い訳を用意しておきたい、という逃げ腰の姿勢の前文でもあることをまず念頭に、一番僕が伝えたいことへの前置きでもあるのだけれど、

 

が、故に

彼女は彼女のイメージを非常に、非常に、丁寧に、慎重に、文字にしている。というのが僕の印象であり、一番強くこの本をおすすめしたいところでもある。

 

作品のなかには、全く彼女のイメージが伝わってこないものも正直あった。

当然である。僕が日本人であり、日本人として生きて来た中で培った『古池』や『蛙』や『水の音』に対する基本的な共通のイメージは必ずあるに違いないにしろ、その認識の合成の誤謬ミクロの視点では正しいことでも、それが合成された集計量の世界では、必ずしも意図しない結果が生じることを指す。)は必ず生じる。

 

生きてきた環境や経験則によって、僕の言葉への認識と彼女の言葉への認識が、たとえどれだけ丁寧に彼女が言葉を綴ったとしても齟齬が生じてしまうのは仕方のないことなのである。

 

ただ、その場合においても、本来五・七・五・七・七の五句体の歌体であるはずのリズムをなぜあえて崩したのか、なぜあえてひらがななのか、なぜあえて句読点がうってあるのか

をイメージする自由をこちらに与えてくれるのが、彼女の短歌の特徴であると、僕は思うのだ。

 

手のひらに潰せなかった蚊の脚が揺れて、揺れ続けて、夏果てる

 

僕ならば

 

手のひらに 潰せなかった蚊の脚が 揺れて揺られて夏果てる

 

と詠んでしまうかもしれない。その方が口当たりがよいからだ。

ところが彼女は、あえて文字数を崩し、句読点でリズムを崩すことで『揺れ続けて』という言葉そのものが引っかかるような詠み方をしているように思われる。

 

何故か?

 

そこから先を、彼女は、僕に、僕たちに、委ねているのだ。

そのために彼女は非常に、非常に、丁寧に、慎重に、文字にしている。という僕の主張が伝わって頂けたら、僕にはもう書くことはないのだけれど、

 

ここからは僕の(必ずしも彼女がイメージしたものと同一ではないかもしれない)感想を書いていきたい。まぁ、そのために序文に言い訳を用意してあるので許してほしい。

 

先程の短歌でもあるとおり、彼女の短歌のほとんどから、『夏』と、『死』を連想する。

夏はあらゆる生命の若さと躍動とは裏腹に、どこかしら死のイメージがつきまとう季節であると僕も感じているし、西洋的な『死とは生命の最後の姿であり、生とは逆の意味である』という単純な構造ではなくて生と死をひとつなぎとした生命活動と捉えている印象があったし、

また例えば彼女が表現する『死』とは、血のしたたるようなドロドロとしたものではなくて、賽の河原で積み上げた石ころがゴロンと落ちるような、乾いた骨がカサカサと鳴るような、そういうもっと俯瞰で、客観的で、乾いたイメージに近い印象を受けた。

 

本を開いて最初に飛び込んでくる短歌

 

寝転んであなたと話す夢を見た 夏で畳で夕暮れだった

 

を読んだ瞬間に、ああ、このあなたはもうこの世には居ない人なんだな、と僕は思った。

何故かと問われても、それは夏で畳で夕暮れだったからだ、としか僕には答えられないし、それは彼女が慎重に選んだ言葉と語感にそういった意味がある、と僕が感じたから、としか言えない。

 

僕の好きな詩人に、こういった乾いた死へのイメージを綴る人がいるのだけれど、彼は同時に、社会との軋轢を、大人になった自分の不自由さを、自由であった幼少時代を引き合いにする詩人でもあった。

 

そして藤宮若菜もまた、少女時代や子供を引き合いに出す歌人であるのだけれど、それとは少し異なるのである。

 

日能研のリュックにぶらさがっているミッフィーずっとずっと目があう

 

無垢な子供から見た、色々と知ってしまった大人の自分。ずっとずっとみられている。

もちろんここもあえて語感を悪くしていることで強調される印象を受けるのだけれども、彼女がこのように引き合いに出す場合は、これもまた客観的であるがゆえに、こちらに丸投げしてくれている自由さがそこにあるり、こちらに想像する余裕を与えてくれる。

前にも記したけれど、そこから先を、彼女は、僕に、僕たちに、委ねているのだ。

 

本棚のない部屋が好き 生き方も愛され方も知らないでいて

 

これも僕は、知ってしまった自分と無垢である他人との対比と思えたのだが、自分がそうでありたいと願った僕の好きな詩人とは逆で、歌のなかで他人にその無垢さを丸投げしているのである。

 

さて、書き出したらきりがなくなるので、ここから先はぜひ、皆様に実際に本を手にとって、彼女が丁寧につづった、美しい数々の言葉の洪水に飲まれてほしいと思うのだが、最後に一つ、個人的に。

 

とれかけのボタンの糸を切るようにそれでもポケットにしまうように

 

句読点なしで一気に読み上げているのは、そのボタンが大切であるのか、そうでないのか強調したくはない印象であるこの句なのだけれど、

 

僕が以前書いた文章で

 

海岸で小さなボタンを拾ったことがある。

一緒に居た友人に「そんなの、捨てなよ」と言われたのだけれども、なぜだか僕にはそれが出来なくて、そっとポケットに忍ばせた。

それ以来そのボタンは見ていない。あの小さなボタンはどこに行ったのだろう?

机の引き出しの奥にしまっておくほど大切ではないけれども、捨てた記憶もない小さなボタン。ひとみとの出会いの思い出も、そんな小さなボタンみたいな出会いだった。

 

というのがあるのだけれど、正直ゾクッとした。

僕の場合は出会いを、彼女の場合は恐らく別れを、描いたとしても、同じ素材で僕はつらつらと書かなくてはならない無能であり、彼女は実にミニマルに表現出来る才能がある、というところに短歌のもつ面白さを感じて頂きたい。


まぁ彼女の意図したものとは違うかもしれない、という言い訳は最初に用意してあるので問題はないであろう。

 

 

それでは、ぜひ。本屋かアマゾンで!

 

 

 

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