Life SUCKS but It's FUN

音楽、IT、サブカル、アイドル、その他思いつくまま好きなものだけ共有したい、ルサンチマンの雑記です。

【Detroit: Become Human】人は将来AIに支配されてしまう論を本気で考察してみた。

今めちゃくちゃ話題ですね。

Detroit: Become Human。

リアルなグラフィックもそうなんですが、物語自体が実に衝撃的です。

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このカーラがバッサリ髪を切ってですね

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ほら!めちゃ可愛い!!!!

 

あ、内容ですね。すみません。以後多少のネタバレ要素を含みますのでご注意ください。

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近未来のそう遠くないお話です。プレイヤーの選択によって多少変化はあるものの、大筋では、虐待もしくは差別を受けたアンドロイドが自我に目覚め団結し革命を起こすストーリィです。

 

近年AIが人間を支配してしまうのでは?とまことしやかに囁かれております。

一つに以前はコンピュータがカタカタと一行ずつ人力によって組み立てられたプログラムから成り立っていたのが、アルゴリズムの確立によって膨大なデータから自己学習するようになったこと。

二つ目にそれに伴いビル・ゲイツやらスティーブ・ジョブズなどの偉い人が警鐘を鳴らしたこと。

三つ目に実際に囲碁AI「AlphaGo」が碁の達人を打ち負かしてしまったこと。

 

人間より知的なAIはやがて人類を支配するのではないだろうか?という。

 

こういった考察は実はなにも今に始まったことではなく「2001年宇宙の旅」はまさにそういったテーマが盛り込まれた作品だったし、

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そもそも広く知られている1950年のアイザック・アシモフのロボット工学三原則

    1. 第一条
      ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
    2. 第二条
      ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
    3. 第三条
      ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

 

が出てくる「われわれはロボット」というSF作品は第三条の暴走のストーリィでした。

 

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 ミダス王は黄金を望んだ結果、愛する人も食事も金に変わってしまい、孤独と飢えで最後を迎えます。人間の探求と欲望が制御不能に陥る恐ろしさです。のび太かよ。

 

で、僕の意見ですけど、

AIを本気で研究している頭いい人たちがいまだにアシモフ理論の穴に気づかずガンガン研究を進めていると思う?んなわけないじゃん。ってことです。

 

例えばAI研究の第一人者であるスチュワートラッセル氏

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あ、関係ないけど歳取ったらこういう人になりたいよね。めちゃイケメン。

 

で、彼はアシモフの三原則は以下のように書き換えられなければならないと主張しています。

  • 第一条
    The robot's only objective is to maximaize the realization of human values. ロボットの唯一の目的は人間の価値観を理解することである。
  • 第二条
    The robot is initially uncertain about what those values ara.
    ロボットは原則的にその価値観に対して不明確である。
  • 第三条
    Human behavior provides information about human values. 
    人間の行動が人間の価値観の情報を提供するものとする。

     

一条はアシモフに反しつまりロボットは自分の存在維持に興味がないということ。二条はその最大の目的が何かを理解していないということ。そして三条はそれを人から学ぶのだということ。翻訳間違ってたらすまん。

 

結果的に彼の作っているAIロボットは人間にスイッチを切らせることができます。

 

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ミダス王の背中にもつけてやれよ、「これ押して」つって。俺が押すとボタンが金になるからさっつって。

 

まぁ僕が思うに当然AIが持っている問題というのはきちんと理解されていて正しい方向で研究開発が進んでいますよね、ってことです。そりゃそうだよね。

 

さて次の問題。

じゃあAIがDetroit: Become Humanみたいに自我を持ったらどうするのさ?って問題。

 

これは多少の科学と哲学の問題になってくるのですが、まずそもそも「自我」ってなんですか?

ここからは完璧に持論なのですが、自我とはすなわちエス (Es)を含みます。チャゲじゃないほうのじゃなくて。

 

冒頭にあげた「人間に勝った囲碁マシーン」は膨大なデータから自己学習したわけですが、じゃああなたはそいつが自我を持ってる、つまり人間と同じと思いますか?思いませんよね?じゃあなぜそう思わないの?って聞かれたら、だってロボットが勝ちたいと思って動いてるわけじゃないじゃん、って思うはずです。

 

では勝ちたい!ってのはなんなのか?これが「エス (Es) =感情、欲求、衝動、過去における経験が詰まっている部分」なんです。僕が思うにエスがあって、初めて自我があると言えると思うのです。

 

じゃあAIがDetroit: Become Humanみたいに感情をもつかもしれないじゃん。

・・・・はい。では「感情」ってそもそもなんでしょう?

 

人間の脳の働きはある程度解明されています。で、将来的に精巧にコピーすることもできるでしょう。

たとえば、

 

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こういう女の子の写真をAIに見せます。目鼻立ちとかバランスとか膨大なデータから平均値を算出し自己学習し、「かわいいですね!」って言わせることは可能です。もっと上手なこと「できたら付き合いたいっすねー」とかも言えるでしょう。

 

でも!!でもですよ。

僕らが感じる「はぁ~~~かわゆす~~~」という感覚、この写真のから受け取る情報に伴うこの感覚。

 これを「クオリア感覚質)」というのですが実はこれが科学的に全く解明できていないんです。これを「意識のハードプロブレム」といいます。

 

もっと簡単にいうと、wikiにもあるんですが、←これを赤だと認識するシステムは解明されていますが、赤に伴う感覚(暖かそうとか)は全く解明されていないんです。

 

極端に言ってしまえばバットでケツを殴られたときに、痛覚が伝達されて脳に届き、避けようとする動き、までは解明されていても「うわ!痛い!ヤダ!やめてくれ!」という感覚(クオリア)がなんなのか、わからない。

 

物理主義的に考えるのであれば、なにかがなにかに影響を与える時、必ずそこに素粒子なりなんなりのやり取りがあるはずなのです。

女の子の写真を見る→光子(フォトン)が眼球に影響をあたえる、物が落ちる→重力子(グラビトン)が影響を与える、かわいいと思わせる感覚を伝達する→????

ってことです。

 

長くなりましたけど、じゃあこの解明されていないシステムを人間がAIに搭載すること、もしくはAIが自己的に開発、搭載することが可能なのか?と言われたら僕は断じて

「否!ありえない!」

と声を大にして言いたい。わからないものは作れないし、人間が作った掃除機がいきなり空をとぶことはないんです。

 

長くなりましたが、最後に哲学的側面から。

あなたの恋人が「本当に大好き。ずっと一緒にいたい。」と言ってもそこに感情があるかないか、もしくはひょっとしたらものすごく精巧につくられたアンドロイドがプログラムで言っているという可能性の否定、これは哲学的に絶対に証明のしようがないのです。(哲学的ゾンビ

 

哲学者デカルトが言った言葉

「我思う故に我あり」

は、自分は自分だって考えてるから自分がいるって証明できるけど、他のことはなんも証明できないよね。ってことなんです。

 

つまりは仮にでもAIが意識を持ってしまった、なんてことは永遠に証明できないわけですね。

ではでは

少女閣下のインターナショナル - HAL451(HAL9000 Remix) by CRZKNY | CRZKNY | Free Listening on SoundCloud

【ささみさん日記】捨て猫と一緒に暮らしています。

僕は仕事柄、一日中部屋に閉じこもってパソコンを使うことが多いので
気晴らしに近所の大きな公園に散歩しに行くのが習慣になっています。

で、忘れもしない2013年2月7日、公園でこんな猫にあいました。

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なんだか最初から馴れ馴れしかったです。
ささみさん、って名前にしました。

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それからしばらくは毎日公園にかよってご飯をあげるのが日課だったんですが

 

 

実は足を怪我していて、
毎晩寝る前は大丈夫かな?って心配になる日々でもありました。

そして、ある夜天気予報をみていたら
今晩から大雪になります、というニュースが飛び込んできました。

もう不安が抑えきれなくて、拾ってきちゃいました。
せめて足の怪我が治るまで僕が責任もって面倒みようと。

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足の怪我が治るまで、というのは理由があって
子供の頃にも捨て猫を拾ったことがあったのですが
毎日表に出たがったりして、
結局家で飼いたいとおもうのは人間のエゴで
外で育った野良猫さんは、
やっぱり外の生活のほうが楽しいのではないかと思うんです。

けどこいつはなんか変な野良だったみたい。

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びっくりするくらい甘えん坊で
僕にいっつもくっついてないとイヤみたいだし、

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ってことで今も隣でねっころがっています。
いまでは大事な大事な僕のパートナーです。

ささみさんがうちに来てもう5年です。
もともと若い猫でもないので寿命が心配ですが、
ずっとずっと元気でいてほしいです。

「米津玄師=天才」説の疑問と彼に教えられた一つのこと

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最初に、僕は彼を初期から知ってはいるが、寄り添うように追いかけてきたファンではない事、またその上で気付かされたことがあったという内容であることを念頭に置いて欲しい。

まずは2曲聞いて頂きたい。

「結ンデ開イテ羅刹ト骸」ハチ

「Lemon」 米津玄師

「結ンデ開イテ羅刹ト骸」 は彼がハチ名義で2009年、まだ十代の頃にニコニコ動画に投稿した、そして僕が初めて耳にした作品。 「Lemon」 は彼の最新作だ。

ハチ時代からのファンからは最近の米津は傾倒してるし凡でつまらないという意見を見るし、最近のファンからはボカロPだったことがショックだという意見を見る。

どちらもわからなくもないくらいに全く別物とも言える。

ただこのBlogの結論からいってしまえば、極論にはなるがどちらも根本的な部分ではなにも変わってない、と今では思っているのだ。順を追って行こう。

 

「本当の意味でのオリジナルなんて何一つ無い」

彼の言葉を借りれば。

音楽にしろなんにしろ、創作物というものは何かしら自分の体験や影響の寄せ集めだと思うし、仮にゼロから産まれたものだと言い張るのであれば、それは単に奇を衒うだけのなんの根拠もない「芸術」という隠れ蓑を纏ったものではないだろうか?

2009年当時、ボカロといえば初音ミクのキャラ性を歌ったものやもしくはそのキャラ性を活かしたストーリィ的なものが多かった中、このノスタルジーと絶妙な不協和音に満ちた「結ンデ開イテ羅刹ト骸」 は僕にとって衝撃だった。

ではこのハチという人の作る音楽や作画の根源は何であろう?それが全くわからなかった。ゼロから作った奇を衒ったモノにしてはあまりにも作り込まれた世界観だし、恐らくは僕が今まで全く触れてこなかった音楽の世界で生きてきたひとなんだろうと、なんの情報もないまま思っていた。そしてその独特で謎めいた世界観にまるで中毒にかかるように大勢が引き寄せられ、彼はまたたく間に有名ボカロPになった。

そして現在の「Lemon」。悲しいことにメジャーになってからレーベルの要望に応えるようにガラリを作風を変えざるを得ないミュージシャンは昔から後を絶たない。

古くからの米津ファンが最近の彼にその方程式を当てはめてしまうのも無理はないかも知れない。そしてそれは同時に僕が犯した罪の1つ目でもあるのだ。

ただ、何か引っかかるのだ。本当に彼が、あの音の職人「ハチ」が、メジャーに魂を売ったのだろうか?僕は納得行かないのだ。どうしても知りたいのだ。だから僕はもう一度、一から米津玄師に向き合ってみることにした。

 

「米津玄師という少年」

彼は夕方に「恋はみずいろ」が放送で流れるような徳島の港町で生まれ育った。そしてその何もない場所にインターネットがやって来た。当時流行ったFLASHアニメにどっぷり浸かったそうだ。

ここで最初の疑問の答えは出ないという答えが出てしまった。ああ、なるほど。

ご存知無い方に説明しておくと、回線がまだ細かった当時、動画といえばFLASHアニメが主流で、今のように動画サイトなど無く誰が作ったかもわからないような変なものから作り込まれたものまでいろいろなサイトに貼り付けられ、まさに百鬼夜行の世界だった。そして音源はほぼ自作されることはなく、メジャーでいえば彼も好きだったと明言しているBUMP OF CHICKENや、そうでない場合は動画に合わせてBPMをあげたり下げだり、音声をミックスしてみたり、聞くに堪えない不協和音から偶然心地よいものまであった。気になる方は探してみるのもいいが、本当に百鬼夜行の世界なので米津玄師少年の片鱗を見つけるのは砂漠から一粒のダイヤを見るける旅になりそうでオススメできない。

2つだけサンプルをあげておく

quino episode 1 [English sub]

物凄くよく作られた作画例。「砂漠」と先ほど言ったのはファンならばピンとくる例えであったかもしれない。

F*ck! Shit! Piss! - YouTube

不協和と声のサンプリングMIXの例。申し訳ない。全く居心地の悪い例しか見つからなかった。

彼が貪るように見ていたこういったFLASH作品は山のようにあったし、その中で彼が感じた「心地の良い不協和音」があったであろうことは予想ができるし、例えばそれが「ポッピンアパシー 」のイントロなどに色濃くでているのではないだろうか?

「ポッピンアパシー」 米津玄師

話を戻そう。「結ンデ開イテ羅刹ト骸」 は 徳島の阿波おどりのリズムをベースにそういったFLASHアニメの不協和音やMIXを根源とし、彼が心地よさとノスタルジーをとことん突き詰めた音楽だったのではないだろうか?PVも言われてみればFLASHアニメっぽい。・・・だとすれば根源なんか誰にもわからないのではないだろうか?

それを踏まえ「Lemon」をもう一度じっくり聞いて欲しい。わからなければ「スマホでは聞こえない音が!?米津玄師「Lemon」に隠された音のメッセージ 」という動画を見て欲しい。「ウェッ」の声も含め、「増4度」というありえない不協和音コードの進行であることがわかれば、そこにはたった一音にも執拗に拘る彼の心地よくも奇妙な独特なセンスが初期から変わらず健在であることが理解できるはずだ。魂を売った?どこに?

「米津玄師というデジタルネイティブ

僕が青春を過ごした昭和という時代は実に情報が少ない時代であった。が故に誰もが同じようなことを話題にし、が故に他人との差別化を図ることでささやかな自尊心を保とうとしたのだ。例えばロックをやることやメジャーを否定することで自分という存在をアピールした。もっと自尊心を保ちたかったら更に地下へと潜っていく。極端に言ってしまえば変なことをする奴は変なことをしようと思って変なことをしてただけで大抵はまともだったのだ。

僕は自分の経験則からボカロPハチの奇妙さは狙って作られたものだと思っていたのだ。もっと平たく言えば人と違うことをやろうとして意図的に作られたものだと。 これが僕が犯した2つ目の罪。

「 夕方5時になると、放送みたいので「恋は水色」が流れてくる。それが僕の中の郷愁感の原点で、自分の中ですごく大きくて。あの曲を聴くたびに、夕焼けとか日暮れの頃を思い出して郷愁にかられる。そういう音楽を作りたいなあ、そういう音楽でありたいなあと思うんです。 」

・・・・本当に申し訳ない。バットで後頭部を殴られたような衝撃だ。音楽の感性を形作った根源が少々特殊であったと言うだけで、彼は最初から今に至るまで、少しも変なことをやろうとなんかしていなかった。物凄く真っ直ぐで純粋な気持ちで、その都度その都度、彼が持っている技術以上の高いハードルを儲け、狂人とも言える集中力と吸収力とセンスを武器に一つ一つ慎重に組み上げていくことで、自分の中にある美しいもの、心地よいもの、ノスタルジーなものを作り上げているだけなのだ。

ただそれが、本当の意味で他人と関わることでしか自分の居場所を作れなかった我々昭和の世代にはなかなか理解出来ない。彼は一人でも心地よい居場所を作れてしまえるデジタルネイティブ世代であって、本人はそれを良しとしていないのだ。そして彼はそういう自分を「いびつ」だし「かいじゅう」だと思っているし、けれどもそうやって自分を形作って来たものを絶対に否定する事なく、最新アルバム名を「BOOTLEG海賊版)」としたことにも表れているように、様々な体験や影響の寄せ集めである彼自身が、どうやったら伝わるのかを真剣に、本当に真っ直ぐ真剣に模索しているのだ。だからこそよりポップへと、わかりやすい音楽へと変化して行ってるのではないだろうか?我々の世代がよりディープな地下へと潜っていったプロセスは彼には当てはまらないのだ。

「傾倒しているというなら昔からとっくに傾倒している」と彼は言う。ピースサインをただのアニソンというならば、パンダヒーローやマトリョシカも当時wowoka氏が流行させたBPM200あたりのボカロ調にどっぷりと傾倒していたともいえるのではないか?

その都度その都度、そのフィールドで伝わりやすい道を真摯に模索する彼をどうして「傾倒してる」なんて一言で否定することが出来ようか?ましてや「米津らしくない」なんてどうして僕らにわかろうか?

    痛みも孤独も全て お前になんかやるもんか
 もったいなくて笑けた帰り道
 学芸会でもあるまいに

    後ろ暗いものを本音と呼んで
 ありがたがる驢馬の耳に
 ささくれだらけのありのまま
 どうぞ美味しく召し上がれ

ー『ララバイさよなら』より

ハチの作品を暗くネガティブな彼の個性だのと決めつけて、明るかったりポップだったり美しかったりする作品を「米津らしくない」と決めつけることで、僕らは「米津らしさ」を勝手に描いていただけではないだろうか?

米津玄師は天才だとも多才だとも言われている。米津本人の言葉を借りれば天才とは「飛躍できる人」のことだ。ここまで米津の言葉を辿ってみて僕は思う。天才だから、で片付けてしまうことは即ち彼の産みの苦しみや努力を見ていない事にならないのではないだろうか?

 

「 人と殴りあいながら血みどろになっても一緒にいたい 」

「MAD HEAD LOVE」 米津玄師

前出の、「ポッピンアパシー」と対をなすシングルである。丁度彼の過渡期にあたる非常にわかりやすい曲だ。ニコニコ動画で作り上げた牙城に閉じこもっていては限界がある、殴り合ってでも人と触れ合える世界の方が美しいという彼のメッセージ。それは多分彼の憧れでもあり、目指すところでもあったのかも知れない。これもまたデジタルネイティブの感性だなと僕は思うのだ。

少し余談になるのだが、しかしそう言った彼の素直なメッセージは今までの彼の難解な音楽を手放しで崇拝しありがたがったクラスタには届かない。「米津玄師  解釈」等で検索するとまぁ勝手な持論がなぜか自信たっぷりに展開されていて「ララバイさよなら」が全く空振りな気がしてそれはそれで面白いのだが、作っている本人はさぞ面白くないだろう。

僕はBlogを書くにあたり、なるべく慎重に本人の言葉を辿ったつもりだ。けれどもやはりこれも僕の私見とフィルターを通しての米津像だから、もちろん僕の言葉なんかも信じる必要もないのだ。

貴方が素直な気持ちで彼の音楽を聴いて思ったこと、描いたことが間違いなく貴方にとっての正しい米津玄師なのだから。

  少しでもあなたに伝えたくて
  言葉を覚えたんだ
  喜んでくれるのかな そうだと嬉しいな

  遠くからあなたに出会うため
  生まれてきたんだぜ
  道草もせず 一本の道を踏みしめて

ー『かいじゅうのマーチ』より

もう本当に自分がひどく汚れている気がして情けない気持ちになって心から涙してしまった。かいじゅうのマーチ。

そうして改めて思うのだ。彼は天才なのだろうか?孤独を味わい、もがき苦しみ模索をして、それでも自分が掲げた高いハードルに辿り着こうとする彼は、果たしてさらっと「飛躍して」なんでも手に入れているのだろうか?

このBlogは音楽が好きでレコードとCDをドキドキしながら集めていた自分が気がついたらインターネットで溢れんばかりの情報の渦に巻き込まれ、少し聴いては理解したつもりになって逆に切り捨てていく作業をしていた自分にたいしての戒めであり米津玄師への、ひいては音楽そのものへ対しての告解でもあるのだ。

「アイネクライネ」 米津玄師

最後、改めて米津玄師のかいじゅうとしての苦しみを知って更に大好きになったアイネクライネを置いていきたい。僕は今後も地方の港町で夕方に放送で流れてくる「恋はみずいろ」のような美しくもノスタルジーに溢れた彼の作品と真っ直ぐ向き合っていきたいと思っている。

このBlogを読んで少しでもそんな気持ちになれたなら、貴方も是非。

 

【コラム】「10代ピンチケはなぜ馬鹿なことするのか」という科学的な何か


今までの科学では脳というのは成長を続けて成人期で止まると考えられてきました。

しかし、ここ近年のfMRI(ファンクショナルMRI)などの発達で
動画として脳を観察することができるようになり
新しい事実が判明しております。


例えば、社会的な通念を形成する脳の前頭皮質の部分は
青年期をピークに、成人になるにつれ縮小することがわかっています。

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前頭皮質は社会において自分はどう行動すべきか?を司る部分です。


え?その部分が一番活発なら青年期が一番社会的な行動とるんじゃないの?

とおもわれるかもですが、
青年期は前頭皮質が一番肥大化している時期で
シナプスの活動が一番活発になります。

つまり、あれもこれもいろんな行動をしてみたくなるわけですね。
そして、その部分が縮小することによって、
必要であるシナプスが強化され、
逆に不必要であるシナプスが整理されるわけです。

コレは弱いバラの枝を切り落とす事によって、
より立派なバラの花を咲かせる作業に非常によく似ています。

あと、コレは余談ですけど、グラフをみてお気づきの方もいると思いますが
女の子の方が男の子よりも2年ほど前頭皮質の発達が早いんです。
中学、高校くらいの女子が、同年代の男子のことを子供っぽいと思うのは
ちゃんと科学的にも証明されているわけですね。

もう一つ加えていうのであれば
リスクを持った行動をした時に興奮を覚える部分である大脳辺縁系

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が、青年期だと、より活発に作用しています。

つまり青年期の脳の成長過程というのは生物的に人間を

・いろいろなことにチャレンジさせる
・その報酬である興奮を与える
・結果的に社会において何が正しく何が間違いなのかを経験として学ばせる
・最終的に要らない作用をそぎ落とす

という行動を取らせるわけです。

ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College London, UCL)
が面白い実験をしています。

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仕切りがあって相手側から見えるものと見えないものがある状態で
奥にいるおっさんが「一番上のトラックを動かしてくれ」と言います。
「相手の立場に立って物事を考える」能力があれば、正解はこうなります。

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この実験で青年期の被験者の正解率が成人に比べて
非常に低いという結果がでています。
つまり相手の立場に立って物事を考える能力がまだ未完成であるということですね。


まぁ、こういったことはわざわざ科学で説明しなくても
実に昔から言われていることでもあります。

400年まえのシェイクスピアの「冬物語」にこんな一文があります。

I would there were no age between ten(^ and threeand-twenty,
or that youth would sleep out the rest ;
for there is nothing in the between
but getting wenches with child,
wronging the ancientry, stealing, fighting

「10歳から22歳までの若者は皆、冬眠してくれれば良いのに。
 彼らと来たら、女の子を妊娠させたり、老人に悪さしたり、
 盗みを働いたり喧嘩したりすることにしか興味が無い」


とはいえ、僕はこの時期に「おりこうさん」でいることのほうが
逆に怖いと思うんですよね。

実際やんちゃしてこっ酷く怒られた経験のある人の方が
いい親父さんになったりもしますからね。

きちんと怒ってくれる大人がいれば、ある程度は自由にさせてあげるのも
成長過程として必要なのかもしれません。

最後に僕の大好きなJ.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の主人公
ホールデン・コールフィールド君の一節で締めたいとおもいます。

And I'm standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff - I mean if they're running and they don't look where they're going I have to come out from somewhere and catch them. That's all I'd do all day. I'd just be the catcher in the rye and all. I know it's crazy, but that's the only thing I'd really like to be. I know it's crazy.'

「で、僕はその崖っぷちかなんかに立っているんだ。僕の仕事は崖から落っこちそうになる子供を捕まえることなんだな。つまり、子供って走り回ってるとどこへ行くのかわかってないから捕まえてあげるんだよ。そういうことを一日中やるのさ。僕は「ライ麦畑の捕まえ役」になりたいんだ。馬鹿らしいってわかってる、けどそれが将来の夢なんだ、馬鹿らしいってわかってるけど」


シェイクスピアサリンジャー翻訳:僕)

「ラピュタ」の謎

ジブリ作品の「ラピュタ」の元ネタが、
1726年、ジョナサン・スウィフト作「ガリバー旅行記」の第三部に出てくる
「ラピュータ(Laputa)」であるというのは有名な話。

で、このLaputa、スペイン語系をかじった人なら常識かと思いますが
「売春婦」と言う意味で、英語にすると、「The Bitch」(笑)
なので、ラピュタの海外版は「Castle in the Sky」に改名されているのもファンならご存知ですね。

ま、宮崎駿監督は意味知らなかったらしいですけど。


何故にジョナサン・スウィフトは、ガリバー旅行記の中で、
空飛ぶ浮島に、ビッチなんてひどい名前をつけたのでしょうか?

みなさん一度は目にしたことのあるガリバー旅行記
実はこれ、全然ファンタジー作品なんかではなくて、
イギリスの政治体系を痛烈に批判する「政治論の本」なんです。

このガリバー旅行記、当時のイギリスはまだまだ封建的で、
直接、女王や政府を批判するなどもってのほかなので
主人公レミュエルガリバーが様々な不思議な国を訪問した際に
他文化からイギリスと言う国、女王、政治家、軍隊が批判されてしまう、
という逆批判の形を取ることで誤魔化してなんとか出版に至った本なのです。

なのでこの本には至る所に皮肉が書かれていて、「売春婦」というふざけたネーミングも
その一つなのでしょう。


さて。
ここからがラピュータを謎の島たらしめた「謎」の部分の本題です。
ガリバー旅行記の第三部、ラピュータの科学者がとんでもない事を言い残しています。

「火星には2つの月があり、一つは火星の中心から火星の直径の三倍のところにあり~~
もう一つは同じく五倍のところにあり・・・」

冒頭にも書きましたが、ガリバー旅行記が書かれたのは1726年、
しかしながら実際に火星の2つの衛星がアサフ・ホールによって「発見」されたのは
実に、150年以上も後の1877年。


ここからジョナサン・スウィフトは世紀をまたいで再び脚光を浴びることになります。
スウィフトは預言者なのではないか?
いや、ラピュータは実在するのではないか?

あくまで僕の予想ですが、この推測が独り歩きをして
ラピュタ=空飛ぶ未知文明都市」
の様な都市伝説が広まって現在に至るのではないだろうかと思うのです。

まぁ、夢はありますよね。


ただ、種をあかすと
この、「火星の衛星は2つ」と最初に言い出したのはジョナサン・スウィフトではなくて、
あの、ケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラー(1571- 1630)なんです。

木製の衛星が4つまで発見されていた当時、ケプラーは、
「金星には0個、地球には1つ、木星に4つなら、火星には2つ衛星があるに違いない!」
という、身も蓋もない「等比級数的」理論を展開していたのですが、
わりと当時の知識人の間では常識になっていたそうで、
科学にも明るいジョナサン・スウィフトがこのケプラーの説を知っていたのは
ほぼ間違いないと思われます。


・・・・なので、ラピュータを有名にしたジョナサン・スウィフトの予言は
実は世間で言われているような神秘的なものでも伝説的なものでもなくて
ヨハネス・ケプラーのヘンテコな理屈が原因だったわけです。


あ、ひとつケプラーの名誉の為に言っておきますけど
ケプラーの第三法則は今でも使われるほど正確な法則だし
そもそも「Satellite=衛星」という言葉を作ったのはこの人です。


あ、それからもひとつ、ジョナサン・スウィフトの名誉の為に言っておきますけど
火星にある衛星、フォボスダイモスの、ダイモスにある巨大クレーターには
ラピュータの科学者をたたえ、「スウィフト」という名前が付けられています。

いるか、いるか、いるかいないか 。

数年前の日曜日。

僕は急に駄菓子を大人買いしたくなって、近所のおもちゃ屋さんに向かうことにした。

そういえば自転車は盗まれたんだっけ。

スケボーをコロコロ、コロコロ、転がしてたどり着いてみたら、

思ったよりも種類は少なかったので、あっという間に買い物は済んでしまった。

子供がジィーっと観てるから、駄菓子のせいだと信じてた僕に意外な一言

「いいなぁー・・・スケボー・・・・」

そうだった、子供は遊び優先。

遊びがなくなって手持ち無沙汰さにお菓子をほおばる。

お菓子も遊びの延長線上。

 

いいよ。使っても。その代わり自転車貸して?


先頭をおぼつかなく滑る彼の後ろを僕は、

ちっこいヘルメットをかぶって、ちっこい自転車をこいでいて、

その後ろを、つぎ俺!つぎ俺!と叫ぶ子供が続いて、一つの列が出来ていた。

 

全部で七人。

女の子は二人。

小学校一年生と二年生。

温かい日だったから電柱の下に座って、これは自転車のお礼、と、

みんなで駄菓子を食べることにした。


今日は宿題ない日なの?


「いるか!! たにかわしゅんたろう!!!」


え?なに?それだれ?


「宿題で覚えるの。たにかわしゅんたろうもおぼえるところなの」


作者かな。へー。教えてよ!


「いるかいるか いるかいないか

 いないかいるか  いないかいるか

 いないいないいるか  いるいるいるか

 いつならいるか ・・・・・」

すごい。全員ちゃんと覚えてる。

 

それから僕が、だれが食いしん坊だとか

だれがイタズラしたとか、だれを泣かせたとか

いろんな話を聞かせてもらったころには、

電柱も、道路も、コンクリの壁も、

オレンジ色に染まりだしてたから、帰るねって告げた

「オレんちおいでよ!」


いや。。。ありがとう、でもお母さんとかいるでしょ?


「オレの友達っていうから平気!」

子供のこう言う感性にびっくりすると同時にまた

僕は彼の友達の一人と認めてもらえたことに、少し嬉しさを感じていた。

背とか、見た目とか、あまり関係ないのだろう。

僕は「残念だけど・・・」帰ることにした。

 

次の日の、つまり僕が大人の社会に揉まれる週の最初の夜。

僕はスーツ姿で原宿にある広告代理店のオフィスに居た。

以前に依頼した、些細な翻訳の仕事のお礼がしたいと、

その広告代理店の社長が食事に誘ってくれたので、

自分の仕事を早々に切り上げて。

食事の最中もわかっていた。

何か別の依頼があるんだろうな、と。

でも社長は世間話以外なにも切り出さずに、場所を移そう、

と、彼の経営する会員制のバーに僕を連れていった。

 

少し酔いが回った頃に、

「二階を見て欲しい」

と言われて、彼に付いて、僕は外にある階段をあがった。

 


そこはまた別のバー。


詩人の血、ジャン・コクトーですよね?


「知ってるよね、そういうのも見込んで一つ、お願いがあるんだよ。」

やっぱり来た。わかっていたのだけれども。

「このバーをスペイン風にしたいんだ。」

「だからスペインから直で雑貨を入れられないかな?教会風の。」

 

僕は・・・英語少しわかる程度で、スペインは・・・。


嘘だった。半分は、嘘だった。

自信が無いわけじゃない。

でも苦手なんだ、僕は。

こういう気取った雰囲気も。

誰かの気まぐれに付き合うのも。

 

目を合わせられなかったから、

僕はカウンターの上をぼーっと見ていた。

見ていたらそこには、

優しそうな

そしてこの洒落たお店には、おおよそ不釣り合いな

初老の男性の写真が飾ってあった。

 

この方は?


「ああ、ここはね、君も気付いたとおり、詩人が集まるバーなんだ。」


「このお店のお客さん。谷川俊太郎さん。知ってるかな?」


いるかいるか いるかいないか・・・・
いないかいるか・・・・


初めて僕はここに来て、微笑んだ。

作り笑いでなくて、心から微笑んだ。

 


ええ、とてもよく知っていますよ。僕の友達が。

やらせてください。スペインへの発注。僕に。

 

おわり