米津玄師に観る「殴り合ってでも人と付き合っていく」という事
今の時代っていわゆる「欲」をネットで完結させることがある程度可能じゃないですか。
ある程度の承認欲求、物欲、優越、保身、攻撃、達成、解明。まぁなんでもいいですけど。
で、デジタルネイティブな世代ってそれに一定の居心地の良さを感じている場合が多い気がするんですよね。
極端な話、わざわざ面倒な人付き合いするくらいなら家でYou Tubeでも観てるほうが楽。
これはデジタルネイティブに限らず気がついたら僕らの世代でもそうなってしまっているかもしれないし、決してそれが悪いって話でもないのですけれども。人それぞれなんで。
さて、今でこそ一流ミュージシャンである米津玄師もそういう世代で、学生の頃にバンドを組んでみたもののウマが合わず、ニコニコ動画を活動拠点として、一人で、ネットで、成功した一人です。
ところが、彼には夢があって、ある時期にそれではイケナイなと気づくんですが、それがこのメジャー2ndシングル「MAD HEAD LOVE / ポッピンアパシー」に非常に色濃く現れているので、少しそのお話をしたい。
自分はずっと1人で作曲してきたんで、1人でいるってことがどういうことかはよくわかっているつもりでいるんです。1人でいる時間って、ものすごく寂しいんですよね。寂しくて「誰かと話をしたい」と強く思う。さらにそれだけじゃなくて、あらゆることに無関心になるし、気付けば夏から秋になっていたみたいなこともある。それがものすごくしょうもないことだなあと感じて、誰かと愛し合いたいと思うことがあったんです……この曲を作るだいぶ前の話ですけど。そうなると、どんな形でもいいから誰かと関わりたくて。その関わりっていうのは、共感し合ったり、お互いの傷をなめ合うことばかりではないんですよ。「MAD HEAD LOVE」の歌詞にも書いたように、自分の意志と相反する人間と殴り合ったり、「お前の言ってることなんて絶対に間違いだ」って言い合えるような関係って羨ましいことだなって思って。
~米津玄師インタビューより
この米津が一人で築いた巨大なインターネット上の牙城に限界を感じたのが「ポッピンアパシー」にあらわれていて
やっぱり人間が希望を持って情熱的に生きるためには、そういうふうに血みどろにならなきゃいけないんだろうなって感じたんですよね。自分は今までいろんなことに対して斜に構えて、直接的な関わりみたいなものに対して消極的になって後回しにしてきた人間なんで、真正面から向き合うことをしなかった。そういう生活をずっと続けていると、やっぱりこれは人間の生き方としてすごくいびつなことをしているって気付くんですよ。だから真正面から人と向かい合って、「お前の言ってることは間違ってる」とか「お前は悪い人間だ」とか、辛辣なまでにそういうことを言い合うのも「愛情」といっていいんじゃないかって思ったんですね~中略~「他人からどう見られるんだろう」とか「こう思われるかもしれないからこういうことは言わないようにしよう」みたいな打算って、自意識を持ってる人間なら誰しもあると思うんです。でもそれがほとんどない人間って、すごく美しいと思う。何の屈託もなく笑ったり怒ったり泣いたりできる人間って、素晴らしいんですよね。そういう自分の中の理想が反映されているのが「MAD HEAD LOVE」だという。
この殴り合ってでも人と関わって生きて行きたい、と感じているのが「MAD HEAD LOVE」に表れている。
なにか夢をもって生きていこうとしている人付き合いが苦手なデジタルネイティブ世代の人たちに、また気がついたら便利なネットの海で溺れてしまっている僕らの世代に、何かしらのヒントになればな、って話です。
さ、You Tubeでもみてこよっと。
ではでは。