Life SUCKS but It's FUN

音楽、IT、サブカル、アイドル、その他思いつくまま好きなものだけ共有したい、ルサンチマンの雑記です。

ドライブ好きの僕が同じくらい散歩を大切にする理由を辞めていった推しに伝えたかった件

こうみえて、

 

と書き出しておいて、この言葉はいささかブログには不向きであると気がついたのだけれども、思いついてしまった以上仕方ない。こうみえて、以外思いつかないので続けさせて頂く。

 

 

こうみえて、僕は十数年前、とあるファッション誌に毎月掲載されていたことがある。きゃりーぱみゅぱみゅは少し後輩にあたる。

はいはい、さぞモテたでしょうね、お前の自慢話に興味はない、とお思いの非モテ同盟諸君、この話にはオチがある。少しお付き合い願いたい。

 

撮影会は350~450人ほどが集まる。その殆どが女子である。女性ではなく女子である。

その中から編集者が20人ほど選んでスナップとして掲載するのだけれども、10名ほどはほぼ固定で毎月掲載されていた。

僕はその中の一人である。

 

理由は簡単で、alice auaaという、おおよそ中高生には手が出ないブランドの服を着ていたからに他ならなかっただけの話である。

 

alice auaa WEB SHOP

 

ニッチな雑誌とはいえ、全国区であり、が故にファンの熱量は大きい。

会場に行くと、まず僕を知らない人はいないし、「あ、ゆうさんだ」とひそひそ話も聞こえるし、中には堂々と、今日一緒にスナップ撮ってください、とお願いしてくる子もいる。

これは別に僕に憧れているわけではなくて、僕とスナップを撮れば必ず雑誌に掲載されるという計算なのである。

 

撮影が終わると、大抵仲間内で原宿に移動して遊びに行くことになるのだけれど、一緒に写真撮ってください、プリクラ撮ってください、なんてのは両手じゃ足らないくらいだった。

これは単純に「雑誌に載っている人」に対しての憧れである。

 

素直にこのときの僕の心情を語らせてもらえるのであれば「非常に心地よかった」と言わざるを得ない。

家庭の問題で殆ど親から相手にされず、英国ロックばかり聴いていた陰キャだった自分の承認欲求を満たすには十分すぎるほどの世界だった。

 

さて、そんな舞台から降りた僕は、またボッチに逆もどりした。

つまりは雑誌のモデルとしての僕は人気があったのだろうけれども、僕という人間そのものに惹かれて付き合ってくれた女性なんて皆無だったのだ。

 

いわばロマネコンティのボトルに入れられた安いハウスワインが僕の正体で。一度グラスに注がれてしまったら、誰も飲みたくないような代物なのだ。

 

・・・・非モテ同盟の諸君。こんなんで宜しいでしょうか?

 

まぁ冗談はさておき、注目を浴びていた世界から日常に戻ったときに感じる虚無感を、一般的にはスポットライト症候群と呼んでいる。

 

僕の推しの場合はアイドルであって、僕なんかとは規模も目的も状態もまったく違うのを百も承知で書いているのだけれども、かなり似たような感情に、ある日突然襲われるのではないか?ともっぱら懸念しているので、届きもしないこんなブログを書いている次第である。

 

で、そこから脱却する一つの手段を彼女に伝えたかったのである。

やっとタイトルの回収に入るのだが、これは十行ほどで終わってしまうと思う。下手ですまない。

 

僕はドライブがこの上なく好きである。

好きな音楽を自分だけの空間で目一杯かけながら、日常とは違った世界を目指して移動できるのだ。こんなに楽しい趣味はあまり見当たらない。

 

ただ、僕はそれと同じくらい、散歩をすることを心がけている。

車で一瞬で通り過ぎていってしまった近所の公園にも、健気に花が咲いて、一生懸命自分を主張していたりする。

ご近所を散歩している犬を撫でながら飼い主と立ち話することもできる。

野良猫に出会って、今日も仲良くなろうと鳴き声なんかを真似てみるのだけれど、やっぱり嫌われたりもする。

 

車で通りすぎると、ただの灰色の街が、ほんのり色鮮やかに感じることができる。

いや、むしろ、生活する上での幸せはここにあるのではないか?とすら思うのである。

 

最後に辞めていった君へ、捧ぐ。

アイドルという人生は。君を日常の遥か先へと猛スピードで連れて行ってくれたこの上ない経験だったと思う。

 

ただし、その分、ゆっくり歩くことでしか見つからない、大切なものもあったに違いないと、僕は思うのだ。

 

もしもいつか

自分の存在意義に、自分の価値というものに、疑問を感じてしまったとしたら

思い出してほしい。

 

道端に咲いている小さな花を見つけるような毎日を大切にすることもまた

生きてゆく上で無くてはならないと言うことを。

 

 

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「勝ち組負け組」とコロナウイルス騒動について

我々が普段ごくごく当たり前に使うようになった

「勝ち組」と「負け組」

という言葉の語源って、ご存知ですか?

 

これ、結構意外かつ知られていない話なので少しお話しさせていただきますね。

 

ときは1945年8月。

皆さん御存知の通り日本がポツダム宣言を受理して太平洋戦争が終結した訳なのですが、日本から遠く離れたブラジルの地では

 

「日本が負けるわけがない、これはアメリカが仕掛けたプロパガンダに違いない」

 

とし、逆に日本は戦争に勝ったんだ、と主張する日系移民の集団が存在しました。

彼らは「勝ち組」と呼ばれ、中には敗戦を認めた同胞であるはずの日系移民「負け組」を攻撃する過激分子「特行隊(ラジオのみが情報源であったため特攻隊をブラジルの移民はこう認識していた説がある)」まで現れました。

 

例えば日系移民の主な収入源であった綿花の畑を「米軍のパラシュートに使う原料を生産している」とし焼き払ったりー実際は米軍のパラシュートの原料は絹ーまぁともかく素直に政府の発表を信じた同胞をデマを根拠に攻撃したわけです。

 

今の常識からしたら、嘘だろ?と思われるかもしれませんが、1973年に、ブラジルから帰国した日系移民の家族が、高度経済成長真っ只中の日本をみて、「ほら見ろ、日本はこんなに豊かになっている、やっぱり日本は勝ったんだ。」と発言した記録が残っています。

 

 

で。

まぁこういうのって情報が少ない時代ならではだよねー

とか

昔の日本人って馬鹿だよねー

とかで終わる話でしょうかね。

 

情報化社会と言われる現代においても、全く同じようなことがSNSなんかで繰り広げられてやしませんかね。

 

ここには人が過激な発想にたどり着くまでの重要なプロセスが隠されているような気がするのですよね。

 

本来物事の本質というのは、あらゆるデータから整合性のとれた結果として導き出されるものだと思うのですが、今も昔も、自分の信じたいもの、直感的に正しいと思いたいもの、がまず土台にあって、あとは都合のよいデータのみを収集し、それを武器とする人が、結構いるような気がします。

 

 

567end.net

なんかブラジルの勝ち組みたいだなーって思っちゃいましたね。

つか、ブラジルの国旗に見えてきた。

いや、ブラジルの皆さんごめんなさい、ブラジル大好きです。

オブリガード。ミグマシェルター

 

 

国家権力にたいして、不正がないか?嘘はないか?

と我々国民が監視装置として機能しておくことは確かに重要です。

が、しかし、自分の主張が単に権力に対しての反発であり、データとして整合性がきちんととれて居るものなのか?ともすれば、まずは反政府的な感情論が先にあり、自分の都合のよいデータ以外は無視していないか?きちんと学び、発言することは重要だと、僕は思います。

 

ということで、このへんで。

 

 

あ、ちなみにですが、ブラジルの勝ち組、統計的に教育が行き届いていない地方での反乱だったそうです。

 

やれやれ。

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藤宮若菜著『まばたきで消えていく』について

僕の敬愛するホールデン・コールフィールド少年は妹に著作物について

本を読み終わったあとに作者と語りたくなるような、友達になりたくなるような、そういう本がすきだ

というようなことを語っている。

 

著作物から何かを学ぼうとか、救いを求めようとか、勇気を貰おうとか、そういった類の仰々しいものではなく、つまりは文豪と呼ばれようが天才と呼ばれようが、所詮同じ人間が記したもので、著者と共感できる、くらいの立ち位置で良いのではないか。と、僕も思うのだ。

 

しかし、それは小説という形をとって、言い換えれば物によっては十数時間も著者と向き合えた場合にのみ可能ではないだろうか?とも思うのだ。

 

藤宮若菜氏は短歌の詩人である。

 

つまり、彼女の一つの作品と向き合えるのはわずか数秒なのである。

 

そして。さて、これは僕の言い訳を用意しておきたい、という逃げ腰の姿勢の前文でもあることをまず念頭に、一番僕が伝えたいことへの前置きでもあるのだけれど、

 

が、故に

彼女は彼女のイメージを非常に、非常に、丁寧に、慎重に、文字にしている。というのが僕の印象であり、一番強くこの本をおすすめしたいところでもある。

 

作品のなかには、全く彼女のイメージが伝わってこないものも正直あった。

当然である。僕が日本人であり、日本人として生きて来た中で培った『古池』や『蛙』や『水の音』に対する基本的な共通のイメージは必ずあるに違いないにしろ、その認識の合成の誤謬ミクロの視点では正しいことでも、それが合成された集計量の世界では、必ずしも意図しない結果が生じることを指す。)は必ず生じる。

 

生きてきた環境や経験則によって、僕の言葉への認識と彼女の言葉への認識が、たとえどれだけ丁寧に彼女が言葉を綴ったとしても齟齬が生じてしまうのは仕方のないことなのである。

 

ただ、その場合においても、本来五・七・五・七・七の五句体の歌体であるはずのリズムをなぜあえて崩したのか、なぜあえてひらがななのか、なぜあえて句読点がうってあるのか

をイメージする自由をこちらに与えてくれるのが、彼女の短歌の特徴であると、僕は思うのだ。

 

手のひらに潰せなかった蚊の脚が揺れて、揺れ続けて、夏果てる

 

僕ならば

 

手のひらに 潰せなかった蚊の脚が 揺れて揺られて夏果てる

 

と詠んでしまうかもしれない。その方が口当たりがよいからだ。

ところが彼女は、あえて文字数を崩し、句読点でリズムを崩すことで『揺れ続けて』という言葉そのものが引っかかるような詠み方をしているように思われる。

 

何故か?

 

そこから先を、彼女は、僕に、僕たちに、委ねているのだ。

そのために彼女は非常に、非常に、丁寧に、慎重に、文字にしている。という僕の主張が伝わって頂けたら、僕にはもう書くことはないのだけれど、

 

ここからは僕の(必ずしも彼女がイメージしたものと同一ではないかもしれない)感想を書いていきたい。まぁ、そのために序文に言い訳を用意してあるので許してほしい。

 

先程の短歌でもあるとおり、彼女の短歌のほとんどから、『夏』と、『死』を連想する。

夏はあらゆる生命の若さと躍動とは裏腹に、どこかしら死のイメージがつきまとう季節であると僕も感じているし、西洋的な『死とは生命の最後の姿であり、生とは逆の意味である』という単純な構造ではなくて生と死をひとつなぎとした生命活動と捉えている印象があったし、

また例えば彼女が表現する『死』とは、血のしたたるようなドロドロとしたものではなくて、賽の河原で積み上げた石ころがゴロンと落ちるような、乾いた骨がカサカサと鳴るような、そういうもっと俯瞰で、客観的で、乾いたイメージに近い印象を受けた。

 

本を開いて最初に飛び込んでくる短歌

 

寝転んであなたと話す夢を見た 夏で畳で夕暮れだった

 

を読んだ瞬間に、ああ、このあなたはもうこの世には居ない人なんだな、と僕は思った。

何故かと問われても、それは夏で畳で夕暮れだったからだ、としか僕には答えられないし、それは彼女が慎重に選んだ言葉と語感にそういった意味がある、と僕が感じたから、としか言えない。

 

僕の好きな詩人に、こういった乾いた死へのイメージを綴る人がいるのだけれど、彼は同時に、社会との軋轢を、大人になった自分の不自由さを、自由であった幼少時代を引き合いにする詩人でもあった。

 

そして藤宮若菜もまた、少女時代や子供を引き合いに出す歌人であるのだけれど、それとは少し異なるのである。

 

日能研のリュックにぶらさがっているミッフィーずっとずっと目があう

 

無垢な子供から見た、色々と知ってしまった大人の自分。ずっとずっとみられている。

もちろんここもあえて語感を悪くしていることで強調される印象を受けるのだけれども、彼女がこのように引き合いに出す場合は、これもまた客観的であるがゆえに、こちらに丸投げしてくれている自由さがそこにあるり、こちらに想像する余裕を与えてくれる。

前にも記したけれど、そこから先を、彼女は、僕に、僕たちに、委ねているのだ。

 

本棚のない部屋が好き 生き方も愛され方も知らないでいて

 

これも僕は、知ってしまった自分と無垢である他人との対比と思えたのだが、自分がそうでありたいと願った僕の好きな詩人とは逆で、歌のなかで他人にその無垢さを丸投げしているのである。

 

さて、書き出したらきりがなくなるので、ここから先はぜひ、皆様に実際に本を手にとって、彼女が丁寧につづった、美しい数々の言葉の洪水に飲まれてほしいと思うのだが、最後に一つ、個人的に。

 

とれかけのボタンの糸を切るようにそれでもポケットにしまうように

 

句読点なしで一気に読み上げているのは、そのボタンが大切であるのか、そうでないのか強調したくはない印象であるこの句なのだけれど、

 

僕が以前書いた文章で

 

海岸で小さなボタンを拾ったことがある。

一緒に居た友人に「そんなの、捨てなよ」と言われたのだけれども、なぜだか僕にはそれが出来なくて、そっとポケットに忍ばせた。

それ以来そのボタンは見ていない。あの小さなボタンはどこに行ったのだろう?

机の引き出しの奥にしまっておくほど大切ではないけれども、捨てた記憶もない小さなボタン。ひとみとの出会いの思い出も、そんな小さなボタンみたいな出会いだった。

 

というのがあるのだけれど、正直ゾクッとした。

僕の場合は出会いを、彼女の場合は恐らく別れを、描いたとしても、同じ素材で僕はつらつらと書かなくてはならない無能であり、彼女は実にミニマルに表現出来る才能がある、というところに短歌のもつ面白さを感じて頂きたい。


まぁ彼女の意図したものとは違うかもしれない、という言い訳は最初に用意してあるので問題はないであろう。

 

 

それでは、ぜひ。本屋かアマゾンで!

 

 

 

 https://twitter.com/nu_bunhttps://twitter.com/nu_bungei/status/1403244473706967049?s=20

 

gei/status/1403244473706967049?s=20

 

 

これは憎悪か?愛情か? ナスタジオ・デリ・オネスティの物語-ボッティチェリ

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この絵はとある富豪が新婚である息子夫婦の寝室用にボッティチェリに描かせた四枚からなる物語の一枚である。

 

どうやら一人の騎士が女性のはらわたをえぐり出し犬に食わせている場面で、それを見ている青年が驚いているように見える。

。。。。というより、それ以外に見ようがない。

奥で別の騎士が同じく別の裸の女性を追いかけているように見えるが、これは当時の手法で、2つの場面を一枚の絵で表しているだけで、手前の騎士と女性と同一人物である。

 

問題は、である。

この富豪は何故ゆえにこのような残酷な絵画を新婚である息子夫婦の寝室にふさわしいと思ったのか、である。

 

では4枚続けて見れば、なにか答えが見つかるかもしれない。

続けて見てみよう。

余談だが、最後の一枚は個人所有のため、物語の3枚のみプラド美術館に展示してある。

 

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一枚目

騎士が犬を追わせ、女性に襲いかかっている。

青年は犬を追い払おうとしている。

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二枚目。

最初の説明の通り。

 

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三枚目。

森の木々を切り崩して作られた即席の宴会場でまたもや騎士が女性を襲い、青年はそれを一人の女性に見せようとしている。(彼と目があっている女性がひとりいる)

 

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四枚目

全く別の宴会場で、先程の青年が同じく先程の女性の手を取り、なにか語りかけている。

 

 

さて。

余計に謎は深まるばかりだと思う。

 

答え合わせをしてしまえば、これは中世イタリアの詩人、ボッカッチョによるデカメロンの一節である。

 

恋人パオラ・トラヴェルサーリに拒絶され自身の不幸に沈むナスタジオ(絵画の中の青年)が、騎士と犬に追いかけられ責め苦を受ける女性を森の中で目撃する。

この騎士はナスタジオ同様想い人に拒絶され自殺した騎士で、自殺した原因は騎士を拒絶した想い人の残忍さにあるとし、想い人の内臓を引き裂くなどの永遠と続く罰を神から与えられたため、一週間に一度、必ず想い人を殺害し、内蔵を引き出さなくてはならないのである。(二枚目に同じく女性を追う騎士を描いたのは、この無限のループを意味しているかと思われる)

ナスタジオは自分の愛を拒絶すると、彼らと同じ罪を被る事となることを恋人パオラに見せたいがために、週に一度、この殺戮が行われている金曜日にこの森を切り倒し、宴会場兼、プロポーズの場としたのである。

彼女とその家族を招き同場面を目撃させると、恋人パオラはナスタジオに心を許し結婚に同意した。

 

 

 

さて。

女性の主権が著しく踏みにじられているかに思える当時の倫理観はさておき、お互いの愛情を無下にすると、ひどい罰が待っているよ、という教訓として息子夫婦の寝室に飾ったという話は、なんとなく理解できる気がする。ところが、だ。

 

僕はタイトルに「これは憎悪か?愛情か?」と書いた。

実のところ、僕はそのどちらでもないと思っている。

単に結論をタイトルに書きたく無かったのもあるけれども、語呂がよいからそうしたニすぎない。

 

僕はこの一連の絵画を人間の究極のエロティシズムである、サディズムでありマゾヒズム、つまり性(せい)であり、性(さが)であると見ている。

 

皆様にはどうみえるだろうか。

 

 

思春期  エドヴァルド・ムンク

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江戸時代くらいまでの日本人の平均的な寿命は約50年くらいだそうだ。言い換えるなら、医療技術があまり発達していない状態、つまり我々人間は自然な環境だとせいぜい50年くらいしか生きられない生物である。ということになる。

そう考えると当時までの風習、15,6歳で結婚というのは理にかなっている。20歳前に子を授かり、40手前で子が独立し、10年ちょっとの余生を送る、というサイクルになる。

そしてその限りなく自然に近い人間という生物のサイクルに、男子特有の不可解な行動原理をあてはめてみると、意外にもぴたりと当てはまったりするのである。

13歳くらいで精通し、異性をエロい目で見始めると同時にだんだんと親をうざったく思い始める。挙句の果てになんの根拠もなしに、大人はみな馬鹿であり、自分のほうが優れていると勘違いし始める。

しかしこれらの感情は我々が自然に近い環境で生きていた時代において、親元を離れ、自立し、大人よりも働き、子を作るには、ごく自然かつ必要な心の衝動と変化なのである。

 

寿命がより長くなり、社会へ出るためのプロセスが複雑化し、より一層のモラトリアム期間が必要とされ、こういった男子特有の行動原理は黙殺されてしまうしかない現代の社会構造のほうが、むしろ自然ではないのかも知れない。

 

さて、ここで科学的になんの根拠もない僕の勝手な持論に長々と付き合って頂いた心優しき皆様はそろそろ疑問に思っておられるであろう。その話とムンクの少女をどう着地させるのだろうかと。

 

申し訳ない。どうも着地しないし、全く関係ないのだ。

というより全く関係がないと断定できるほどに、わかりやすい男子と比べてこの年頃の少女の心理は不可解なままなのである、と僕は異性として思う。

 

この少女は指のあたりに赤い血が見えるだとかを根拠に生理を迎えたばかりで不安がっている説があるのだけれど、ムンクはしばし肌色をこういう色使いで表すし、僕にはそれだけでなく、体の変化や性に対しての目覚めや、大人と子供の境界線への不安など、もっと複雑な心境にあるように見える。

 

少し前にこんな短編書いたのだけれども

 

jetsetloo.hatenablog.com

 

まぁ書いた本人が説明つけるのは非常にダサいのだけれども、小学生の「咲」が、母の友人の「僕」に対して好意はあるものの、父親でも、友人でも、異性としてでもなく、本人すらよくわからない様子が、例えば呼び捨てで呼んでほしかったり、例えば同級生の男の子を否定しようとしたり、または女の子らしさに腹を立てたり、と自分の立ち位置の不安定さを性別問題も交えながら書いてみたのだけれども、実はもっと良い作品がたった一枚の絵で表現されていたりする。

 

背景を見ていただくとお気づきかと思うのだけれども、彼女本人の写実的な手法にくらべて、枕とシーツの境界線すら曖昧で平べったく、無機質に描かれている。

僕は彼女という自我、本心、は実ははっきりしているのに、彼女が存在している世界にに自分を説明するすべがなく、捉えがたいくらいあいまいで周りは理解できかねることを表現しているのではないかと思っている。

 

逆に環境側からみると、この年頃の少女は複雑で、理解し難い行動に出るように思える、

 

例えばホラー映画では、エクソシストやキャリーなど、この年頃の少女を起用することで、妙な説得力が生まれていたりする。

ホラーでなくてもベティーブルー「37°2 le matin」はもっとストレートだ。

 

この少女が自分の周りの世界の輪郭をはっきりと描けるようになるまでは、あと数年必要なのかもしれない。

 

 

エヴァンゲリオンは現代のヴァニタスとゴドーである、気がするというお話

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 『愛の寓意』アーニョロ・ブロンズィーノ(1540~1545)

 

中世のヨーロッパの知識層の間で、寓意絵(ヴァニタス)という芸術が流行した。一見すると訳のわからない絵なのだけれど、これは何を表してるのか、というのを自分たちの知識でもって解明してゆくのである。そしてもちろんこの絵にもきちんとした正解は存在する。現代では僕のような無教養な人間でもググれば直ぐに答えが出てくるので気になる方は検索してほしい。

 

エヴァンゲリオンは最初のテレビ放送の直後にまさにこういった流行を巻き起こした。庵野監督がどこまで意図したかはさておき、宗教論から精神医学論から哲学論から、様々な角度からの考察がなされ、なんとなく納得のゆく話から妄想に近い話までありとあらゆる意見が交換され、挙句の果てには勝手な解釈をつけた謎解き本なるものまで多数出版された。

 

僕個人の感想を言わせてもらえるのであれば、まぁ僕のブログなので勝手に言うけど、碇シンジくんを筆頭に主要な登場人物、もっとマクロで言うなら人類は全て心に欠けている、満たされていない部分をもっており、それならみんなで一つになって補いましょうというところで、シンジくんがいやそれは正しくないんじゃないの?どんなにツラくても自分の世界は自分が変えることができると思うからやっぱり個を選ぶつって、あら?シンジくんそれに気づいたのね、おめでとう

って話だと思っているので、エヴァってなんなの?使徒ってなんなの?リリスって?リリンって?カヲルくんは受けなの?攻めなの?みたいは話は別にどうでもいいと思ってる。考察が楽しいのは認める。

 

で、僕が面白いなとおもうのが、エヴァの副監督である釣巻氏がFLCLフリクリ)という作品を出すのだけれど、その中で主人公の父親がエヴァ謎本を出したことがあるとか言って、このエヴァムーブメントを少し小馬鹿にしたりしているのである。

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更に、一部ガノタの間では「いやいや、ハンマーてww」で有名なガンダムハンマーと、ガンダムの監督の富野氏の名前が多様されるのだけども、ガンダムはすごい、富野監督もすごい、でもハンマーとか出てくるんだよ?所詮ロボットアニメなんだよ?

という表現がなされている。

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・・・うん。ないなコレは。

 

つまりエヴァの制作陣側が、いやいや皆さん難しいこと言ってますけど、これロボットアニメですよ?と、釘を刺しているのである。と思う。

 

少しこれと似た話が映画界でもあって、アレハンドロ・ホドロフスキーという監督が、砂漠のガンマンが様々な訳のわからない敵を倒し最後仙人を倒したあとに、洞窟を支配する神となる、というカルトムービー、エル・トポを発表した後に、ジョンレノンとかアンディー・ウォーホルなんかが絶賛するもんだから、まさにエヴァと同じような激しい考察合戦から、物事の真理をそこに探るような激論が繰り広げられるという現象がおこった。

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で、この監督が次にホーリー・マウンテンという映画を制作するのだけれども、これもまた一人の男が真理を求めて意味ありげな人々に出会って旅をするみたいな映画で

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ネタバレしちゃうと、最後の最後のいよいよというシーンで、カメラがパンして、マイクさん、カメラマンさん、スタッフさん、を写すのである。

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僕はこのラストシーンがめちゃくちゃ好きで、いやいや皆さん、映画なんかに真理が転がってるわけないじゃん、映画っすよ?これ、と監督が言っているのが聞こえるようで拍手喝采してしまったわけです。

 

で、そうは言っても、あまりにも説明の足らないパートをエヴァンゲリオンに散りばめすぎてしまって、何年も時を重ねるごとにファンの妄想と期待が監督の想像以上に膨れ上がってしまっている、というのもまた事実だと思うし、変な着地をしたらそれこそ「これじゃない!」と炎上してしまうのは間違いないと僕は思う。

 

演劇をやるひとでおそらく知らない人は居ないであろうと思われる作品にイギリスの劇作家ベケットがによる「ゴドーを待ちながら」という戯曲がある。

 

どういう話かというと、

二人のホームレスがひたすら「ゴドー」という人物を待っているだけというユニークな作品です。二人はゴドーを待っている間、暇つぶしのような会話を繰り返します。途中でポッツォとラッキーという二人組の男がやってきますが、状況を変えることなく去っていきます。少年が現れ、「ゴドーさんは、今日は来られません。明日は来ます」という伝言を残します。2幕目もほぼ同じような筋です。ゴドーはいっこうに来そうもなく、あまりに退屈なので二人は首をつろうとしますが、うまくいきません。

 

というお話で「何も起こらない、それが2度(2幕)」と評され、フランスでの初演時には怒りと当惑をもって受け止められたのだかれども、一部ではゴドー(GODOT)は神(GOD)のことである、とか色々な考察の余地もある作品で、とにかくこの二人の会話がなにか深い意味があるのではないか?と思わせるような構成で成り立っている上に、ベケットが「翻訳の際は一言も意訳するな」と言っていることから、なんとなく含蓄を感じてしまう作りになっている。

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で、僕はエヴァの新作を見るたびに、ゴドーじゃん、って思ってしまうのだけれども、いや、これは批判とかではなくて、おそらくどのような回答を監督が作ったとしてももはや手遅れで、ならばいっそゴドーのようになんか意味があるような答えがはっきり提示されておらず、見る人が自由に考察することを楽しむような作り方を続けるのが、ファンにとっても正解なのでは?と思ってしまうのである。

 

まぁ、ロボットアニメなんだけど。ね。

 

 

わ。とよ。についての考察

「わって言わないよね」

 ハンバーガーショップの二階、禁煙席、例の壁一面、随分と柔らかそうな背もたれの付いている側の方、たっぷり二人分を占領している彼女が僕にそう言った。

 僕に言ったのだろう。なんせ店には僕と彼女しか居なかったのだから。

 しかし僕は返事をしなかった。テーブル越しの僕は彼女とは対象的に、お値段以上ニトリのカタログで¥2,980で見つかりそうな安っぽい椅子に深々と腰を掛けて、スマホのニュースサイトをなかば体を2つに折りたたむくらいの姿勢でうつ向いたまま読んでいたのだけれども、すなわちそれは、彼女を無視したという事でもない。

 第一に僕は8割くらいの脳みそでニュースサイトを読み続けながら、2割くらいの脳みそで「和だろうか?輪だろうか?」と考えるだけの事はしていたし、第二に彼女はまず思ったことを口に出してから長々とした説明に入る癖があることを知っていたからだ。

 

 しかし僕のその期待は次の更に不可解な彼女の一言で裏切られてしまった。

 

「よも言わない」

 ただでさえ「わ」に2割も脳みそを奪われている上に、「よ」に更に2割も持っていかれてはたまったものではない。「ファミリーマートのお惣菜」に関するニュース記事から渋々顔を上げて彼女を見るしか無かったのだけれど、そこで僕の期待はもう一度裏切られることになる。

 

 同じくスマホに見入っていると思われた彼女は、いや。正しくは僕の友人、つまるところ、彼女の母親が小学六年生の進級のお祝いに彼女にスマホを与えてからというもの、スマホに見入る以外の時間の潰し方をしている彼女を見かけたことがなかったにも関わらず、驚いたことに顔の前で両手で文庫本を広げて居たのである。

 ついでにいうと、ここではあまり重要な情報ではないのだけれど、そう言う彼女の表情も、もちろんその文庫本のせいで見えなかった。

 

「さきっぽ、本なんか読むっけ?」

「咲ね。ねぇ、なんで本に出てくる女の子ってみんな、なんとかだわ!とか、なんとかなのよ!って言うんだろ?わとかよってふつーに言わなくない?」

 ああ、そういうことか、と思いながら、言わなくない?って言われても自分は女の子じゃないからな、と少しシニカルな返事を返そうとしてやめておいた。彼女の表情が見えていない以上、その返事は少々冒険が過ぎると思うし、ひょっとしたら、例の壁一面、随分と柔らかそうな背もたれの付いている側の方をたっぷり二人分も占領して足を組んでいるような女の子に向かって、お値段以上ニトリ¥2,980から見上げてる僕が言って良いような言葉ではない気がしてしまったからかもしれない。これを単なる視覚効果と侮ってはいけない。嘘だと思うなら秋葉原の「耳かきリフレ」を覗いてみればいい。どんな立派な男性でも女の子の膝下では従順になってしまうのである。

 

「まぁ、その方が性別がわかりやすいからじゃない?ってかさきっぽ、本なんか読むっけ?」

「咲ね。そうだけど、作者がわとかよって言葉を使わなきゃ性別すら表現できないんだったら、なんかそんな本はどうせつまんないんじゃないかなって思っちゃうじゃん?」

「よは言うだろ」

「え?」

「よは言うよ」

「例えば?」

 僕は2、3秒考えてこう言った。

「昨日母親が誕生日だから電話したんだけどさ、今朝マンションの入り口で石井さんに相変わらずきれいだわねって言われたのよ、って。あれ?わも言うじゃん」

「全然ちがう。私は女の子がなんとかだわ!とかなんとかよ!なんて絶対言わないし、そういう小説はなんか嘘くさいから読みたくなくなるって言ってるの」

 人というのは元来もっとシンプルな感情を持った生き物である。彼女がこうして何かと理由をつけて「嫌い」である理由を語っているということはつまり、「嫌い」であるというもっとシンプルな本当の理由にフタをしたいのかもしれない。もしくは何か他の理由かもしれない。

 

 とにかく僕にとってその後付みたいな理由にはあまり興味がなかったので、再びスマホに目を落として…落として…そうだ。ツイッターで見かけた「ファミマのお母さん食堂は男女差別だ」というニュース記事の続きを読んだ。読んだのだけれど、2行ほどで顔を上げた。

 

「でも読んでるじゃん。なんの本?」

「わかんない。よっしーが面白いから読んで、って貸してくれた」

「あれ?よっしーのこと嫌いって言ってなかったっけ」

「言ってない。好きじゃないとは言ったけど」

「同じじゃん」

「全然ちがう。ゆうがよっしーはさきっぽのこと好きみたいだよって言うから私は好きじゃないって言ったんだよ。好きじゃない、ってこれから好きになるかも知れないけれど、嫌い、ってもう絶対に好きにならないじゃん」

「そうなんだ」

「そうだよ。咲だけどね」

 

 で、そのお母さん食堂というファミリーマートのお惣菜シリーズのネーミングは、女性の家庭での役割を決めつけているから許せないのだそうだ。なるほどな、と8割くらいの脳みそで考えながら、2割くらいの脳みそで彼女としたよっしーという男の子に関しての会話を思い出そうと、記憶の飛び石をしていた。していたのだけれども、結局思い出せずに記事を読み終えてしまった。

 

「でもさ、それだったら、今はまだわからないな、とかなんかそういう女の子っぽい言い方だってあるわけじゃん」

「ムカつく」

 彼女はテーブルの下で組んでいた足を崩さずに、つまり上で組んでいた右足で僕の膝を思い切り蹴ってきた。

 ハンバーガーショップの安っぽいテーブル、お値段以上ニトリ¥4,980くらいのテーブルがガタン!と大きく鳴ったけれども、なんせ店には僕と彼女しか居なかったし、僕の「イテっ」という声のほうがおそらくもっと大きかった。

 彼女との大切な会話を思い出せずに記憶の飛び石をしていたことに腹を立てたのかも知れない。彼女がフタをした「好きじゃない」という言葉のもっとシンプルな意味に気付かない僕に腹を立てたのかも知れない。いや、そもそも彼女は最初から腹を立てて居たのかも知れないし、彼女がフタをしたのではなくて、僕が彼女にフタをして居るのかも知れない。

 

「だからその女の子らしいってなんなの?って話を最初からしてるんだけど?女の子らしく答えなきゃいちいち伝わらないの?って話をしてるんじゃん。ありえない。よっしーだって私を好きって言いながらこんなわ!とかよ!みたいな女の子の本渡してくるじゃん、なのに」

「お母さんそろそろかもしれない。出よう」

「うん」

「咲、ごめん」

「ごめんとか言うんだ」

「うん」

「さきっぽでいいよ。なんかへん」

「だよな」

 とだけ、僕は答えた。